怒号のような歓声が降り注ぐターフの上。
青と白の勝負服に身を包み栗毛の長髪をなびかせているのは自分の担当であるグラスワンダーだ。
観客席側にいる自分とターフ上にいる彼女との間には、腰上あたりまで高さがある柵で仕切られていて、まるで彼女を閉じ込めるように遠くまで伸びている。見えない壁があるかのように、その境界線を跨ぐことが出来ない。
万雷の拍手が鳴り響くが彼女の耳はピクリとも動かない。
こちらに背を向けたまま微動だにしない彼女の周辺は徐々に色彩を失いモノクロになっていく。
その白黒は波のように広がっていき、こちらの柵前まで色を奪っていった。
観客席側の色は未だに鮮やかで、ターフ上にいる彼女だけが世界から取り残されたように一人佇んでいる。
「グラス……」
自分の呟いた言葉は観客の歓声に飲み込まれかき消された。
視界は光に包まれ、自分の声は届かなかったと諦めたその時。
彼女の耳はピクリと動きゆっくりとこちらに振り返る。
完全に光に飲まれる瞬間に目にしたのは、燃えるように煌めく青い瞳でこちらに微笑みかけているようだった。
目を覚ますとそこは自室のベッドの上だった。
スマホを付けるとアラームが鳴る30分前に起きていることが分かった。
そのまま身支度を整えるため洗面台へと向かう。
世間では今日はクリスマスだが、自分たちにとっては違う意味で重要な日だ。
着替えも終わり一息ついたところで玄関を出る。
「おはようございます。トレーナーさん」
寮の外で学園指定の濃紺のコートを着たグラスワンダーが立っていた。
「調子はどうだ?」
「はい、とても良いです。トレーナーさんの調整のおかげですね」
タクシーに乗りレース場に向かう間、彼女は目を閉じ静かに呼吸をしている。
彼女が集中しているので声をかけず見守ることにした。
誰も喋らないタクシーの中で朝見た夢のことを思い出していた。
あれは正夢なのだろうか?
圧倒的な走りでゴール板を駆け抜けた彼女の後ろ姿。
その姿は自分たちの目標で最高の結果で「そうなってほしい」という願望であるのだが、今までにも何度も見てきたような感覚に陥る。
彼女を信じていないわけではない。
むしろ、今の彼女であればあの夢よりも速く駆け抜けてくれると思えるほどだ。
だが、どうしてもあのモノクロの世界が引っ掛かってしまう。
見ているだけしか出来ない自分はどうしたらいいのか…
「……トレーナーさん?トレーナーさん着きましたよ」
彼女が身体を揺すりながら話しかけてきた。
気が付けばレース場前まで来ていた。
「あ、ごめん先降りてて」
彼女を先に降ろし運賃を支払う。
「とても考え込んでいましたが何かありましたか?」
控室へ向かう道中、横に付き従うように一緒に歩く彼女が聞いてくる。
「……あーなんて言えばいいのかな」
試合前なのに今から走るレースの夢を見ていたなんて伝えたら彼女の集中力を乱してしまうと思い逡巡してしまう。
「遠慮せず言ってください。伝えられるときに伝えた方が後悔しませんよ」
実際にレースに出る彼女の方が落ち着いてるようだ。
気持ちがモヤモヤした状態では彼女への応援にも力が入らないだろう。
「実は、今日のレースでキミが勝つところを夢で見たんだ」
「負けるのではなく勝つ夢ならそこまで悩むことはないのでは?」
「そうなんだけど、キミがゴール板を抜けた後、色が抜け落ちていく。そんな夢だったんだ」
「それは……確かに変わった夢ですね」
気が付けば控室前まで来ていた。
彼女は着替えがあるため、自分は外で待つことにする。
「夢だとしても、トレーナーさんの声はしっかりと聴こえましたよ」
「えっ?」
ドアを閉める前、彼女がなにか呟いていたが聞き取ることが出来なかった。
「やはり強かったグラスワンダー!今年度活躍した強者たちを薙ぎ払い、暮れの中山でその名を轟かせました!」
正夢になった。
彼女は同期の子たちを寄せ付けず圧勝した。
万雷の拍手で祝福され、その後はウィニングライブのセンターを見事に成し遂げた。
陽はすっかり落ち、街灯や店の明かりで照らされた街の中を歩いている。
街路樹にはイルミネーションが施され、赤と白の飾りつけがそこかしこに見える。
「そういえばクリスマスでしたね」
「そうだな。勝利祝いにケーキでも買って帰ろうか」
「良いですね。ではその前に、一か所寄りたい所があるのですが、よろしいですか?」
断る理由もないので彼女の行きたい所へと向かう。
そこは彼女の行きつけの花屋だった。
そこから出てきた彼女が手にしていたのは白い鉢に入った真っ赤な葉が特徴的な花だった。
「クリスマスになるとよく見かけるやつだ。えーとなんだっけ……」
「ポインセチアです。この赤い部分は葉で、真ん中の黄色い部分が花ですね」
そのように説明してくれた彼女はその鉢をこちらに渡してくる。
「私からのクリスマスプレゼントです」
「あ、ありがとう。何かお返ししないとだな」
急なプレゼントだったので何も用意できていないと彼女に伝えると
「私はこれまでたくさん頂きましたから」
そう言って微笑み一歩前へと進む。
「今までのトレーニングやレースでの勝利。どれもトレーナーさんから頂いた大事なプレゼントです」
「レースで勝てたのも君の実力あってこそだよ」
「私が今回、このように勝利できたのもトレーナーさんのご指導があったからこそ。……私に力があるからと驕ることはしないと決めたのです」
前を進む彼女の表情は見えない。
「ですからトレーナーさん。『来年』が来たら別の娘を担当しても構いませんよ」
今年で彼女を担当して3年。
彼女をこれまで様々な重賞レースで優勝したこともあり、自分の評価も学園内では上がっていた。複数のウマ娘から担当になってほしいとも言われていて、学園の方からも要請が来ている。
「確かにキミのおかげで他の娘からも担当をお願いされてる。複数人を担当できるようになればキャリアアップにも繋がるだろうね」
「それはとても良いことです」
「でも……」
自分は足を止め彼女に届くように声を出す。
「来年になってもキミだけのトレーナーだと思うし、それこそ生まれ変わったとしてもまたキミに会ってスカウトしたいと思ってるよ」
彼女の走りを一目見た時、そしてこの3年間ずっとそばで見続けた率直な気持ちを彼女にぶつける。
「っ……」
彼女は足を止め、少し俯く。
息を吸う時、少し震えているように聴こえた。
「その言葉に嘘偽りがないということ、身を以って実感しています」
こちらに聞こえない声で何か呟いた後、彼女はゆっくりとこちらに振り返る。
「この身体が灰になり火が起こせぬその日まで私は負けません……いいえ……」
目が合う。
「あなたのために、勝ち続けます」
グラスワンダーの瞳は青い炎のように力強く煌めいていた。
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全文(3184字)は小説で
novel/18912683
2022-12-16 10:00:04 +0000