高速連続写真技術は、肉眼ではとらえることのできなかった馬の全力疾走における肢運びを解明した。
なんと、それまで襲歩の描写として西洋美術で広く受け入れられていたポーズは、正しくなかった(※)。
しかし、美術表現においては、それが襲歩を現していたという長年の事実(実績)が残った。
その表現を見ると、古典的な優雅さを連想させるという副産物が受け継がれていった。
考察するに、古典表現における襲歩姿勢は、馬の上半身および下半身のそれぞれをひとまとまりに合成された表現であるため、ありそうな動きとして成立していたのだろうと思う。もしこれが右半身と左半身をひとまとまりとして異なる2つのタイミングを合成したならば「走っているように見えない」ものとして扱われたかもしれない。
ここで、正しいまとまりを用いて異なる2つのタイミングを合成することは、1枚の絵画で2つの異なる時間的視点を表現する手法(異時同図)にも通じるものがあるのではないだろうか。
1頭の馬について、タイミングのズレた状態を描くことで、時間のずれを速度と錯覚させていたのかもしれない。
しかし、完全な肢運びを理解してしまうと1頭の馬に異なるタイミングを合成することの効果が、写実性の棄損による悪影響を補えなかったため、当初の表現意図の大部分が失われてしまったと考えられる。
それでも古典表現の実績は、古典美(優雅さ)というイメージの代名詞として、古典的襲歩がぴたりと当てはまるような新たな活路を見出していったのではないだろうか。
それはつまり、実際の騎馬の疾走というものではなくて、時空を超えた空想の世界を駈けている(現実離れした)騎馬を表現する場合に用いられていることから推測される。
※古い絵画で競馬や障害物飛越で騎手が後傾姿勢をとっているのは古典的表現ではなく、前傾騎乗技術が確立される前の乗り方(鞍や鐙がなかった時代から続くもの)の影響である。実際に後傾して乗っていたので、その点では写実的と言える。
2022-11-01 12:53:49 +0000