「……だから、さようなら」
彼女はそう言って海へと振り返る。
近づこうにも砂に足を取られ思うように進まない。
彼女が海に還る。
「君もいなきゃ嫌だ」
そう言いたいのに声が出ず、沈むその様子をただ見ていることしかできなかった。
ブーブーブーブー
目が覚める。
耳元では起床を促すアラームでスマホが揺れている。
「嫌な夢を見たな」
そう口にするが既にどんな夢だったからあまり覚えていない。
海で何か叫ぼうとしたが言葉に出来ない、そんな夢だった気がする。
とりあえずアラームを止めようと画面をタップする。
「やっと起きましたか?トレーナーさん」
「うわぁ!」
思わず手に持っていたスマホを放り投げる。運よくベッド上に落ちたそのスマホの画面には
『アストンマーチャン』
と名前が出ていた。
アラームだと思っていたバイブレーションは通話の受信を知らせるものだった。
「お寝坊さんですよトレーナーさん」
『寝坊』というワードで思わず時計を見る。寮を出るにはまだ早い時間だった。
ビックリしつつも彼女の声を聞くと何故かホッとしていた。
「それで、どうしたんだ?」
「集合場所、覚えてますか?」
「駅前集合だろ?」
今日はお互いに休みだったため、一緒に出掛けることになっていた。
「……待ってますから」
そう言って彼女との通話は途切れる。彼女から電話が掛かってくるのは珍しい。
普段は対面に会話やLANEなどの文字でのやり取りが主なので、わざわざ電話をするほどではなかった。
電話をした記憶があるのはシニア期に行われたファン感謝祭の時くらいだ。あの時の彼女のことを思い出し、ベッドから飛び起きる。
支度を始め、早めに出ることにした。
「ごめん待たせちゃったか」
「いいえ、マーちゃんが早めに着いただけです。だってまだ待ち合わせの時間じゃないです」
私服姿のマーチャンは眼鏡を掛けているが、眼鏡はずり落ちたように下にあるため、レンズ越しではなく裸眼の瞳でこちらを見つめてくる。
「今日はショッピングモールに行くのか?」
「そうです。マーちゃんの新作グッズがどんな人の手に渡っているのか見ていきます。あとは他のグッズの売れ行きとか見て、どういうグッズがこれから流行っていくのか研究です」
新作が出たことを喜ぶのではなく、その先を見据えた行動で彼女の長期的な戦略を練っているようだ。
「おー今日はたくさんいますね」
ショッピングモールの営業時間開始と同時に客が入ってくる。
今日の目的であるウマ娘グッズ店にもたくさんの客が見える。
「マーちゃんの人形も売れてます。しめしめです」
小学生くらいの小さなウマ娘がマーチャン人形を大事そうに抱えながら両親と共に歩いているのが見える。
「良かったな」
「はい、でも失敗です」
人形は売れているのに何故失敗なのか疑問に思っていると
「新作を買っているか遠目では分からないのです」
新作のグッズはアクリルキーホルダーだ。
確かに通常であれば袋や小さな紙袋に入れられるため会計後だと分からないだろう。
「言われてみればそうだな」
「マーちゃん詰めがあまあまです」
ちょっと落ち込んでいる彼女を励まそうとした時
「……えっ?!アストンマーチャン?!」
制服を着た高校生くらいの女の子がこちらを見て驚いていた。
「はい、アストンマーチャンです」
「ほ、ホンモノだ……!しかも私服めっちゃかわいい……!」
そう言う彼女のスクールバッグにはキーホルダーや缶バッチが付いているが、その全てがアストンマーチャンのグッズだった。
「マーちゃんのグッズいっぱい持ってくれてるんですね」
マーチャンは女子高生に近づきバッグを見てから上目遣いで彼女の方をジッと見つめる。
「あ、あああ、あの、その……めっちゃファン、です……」
女子高生は憧れの存在に近づかれ声をかけられたからか、顔を真っ赤にして固まっている。
「マーちゃんとっても嬉しいです。嬉しくなったのでこれをプレゼントです」
マーチャンの手にはアクリルキーホルダーとペン。
彼女はアクリルキーホルダーの裏面にサラサラとサインを書き手渡す。
受け取った女子高生は状況を把握できないのか素っ頓狂な声を出す。
「マーちゃんのこと、これからもずっと、覚えててくださいね」
マーチャンはそう言いながら彼女がアクリルキーホルダーを持つ両手を包むように握りながら見つめた。
「……もう一生忘れません……」
信じられないほどのファンサービスを受けた女子高生は嬉しさのあまり笑顔のまま涙を流していた。
「今日はファンの子に会えて良かったな」
「はい、マーちゃん思わぬ収穫です」
ショッピングモールで普通に買い物等していたらあっという間に夕方になっていた。
この後どうするか彼女に聞くと「海に行きたい」と言うので、二人並んで陽が沈みかけているオレンジ色の海を眺めている。
夕陽に照らされた彼女の横顔を見て、ふと朝見た夢の内容を思い出す。
海に沈んでいくウマ娘、それはアストンマーチャンだった。急に心配になってきた時、その彼女がこちらをジッと見つめていた。
「オレンジ色の瞳のトレーナーさん、何を映していたんですか?」
「……今朝、キミが海に還る夢を見たんだ」
自分は彼女の手を無意識のまま握っていた。
「やっぱりトレーナーさんは、変なヒトです」
静かに微笑みながら覗き込む彼女。
「……春になると未だに声が聴こえるんです。『波の音』も、海に近づけばより鮮明に聴こえるんです」
「怖いなら移動する?」
「怖くはないです。これは『当たり前』のこと。トレーナーさんも私も、必ず還るんですから。怖くはないです」
彼女は手を離し海を背にしたまま少し離れる。
「それに今は無視するって決めたのです」
沈みかけの夕陽は赤みを増していく。
「どこかの専属のレンズさんが、頑固者さんだったので」
ウェーブがかった彼女の髪の毛の隙間から夕陽が差し込み、キラキラと輝く。
「……トレーナーさんの瞳は空の色みたいですね」
彼女独特の言い回しが始める。
「朝でも夜でも、映す色が変わり続ける。でも……」
彼女は両手の人差し指を自分の頬に向ける。
「そこにはマーちゃんが映っているんですよね?」
「もちろん」
言い回し部分はあまり理解できなかったが、質問に対する答えは明白だった。
「えへへ…」
彼女は微笑む。
「空と海、映し方は違うはずなのに、同じ色を見ているんですね」
また彼女は上目遣いで覗き込んでくる。
「マーちゃん色に染まるのではなく、トレーナーさん色に染まっちゃってる訳なんですね」
「ん~、よく分からないけど、とりあえずマーチャンしか見えてないっていうのは確かかなぁ?」
彼女の言い回しはやはり独特だったので、今の自分の率直な気持ちを伝えた。
「……本当に、あなたってヒトは……」
アストンマーチャンは微笑みながらこう伝えてきた。
「変なヒトです」
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全文(3737字)は小説で
novel/18590370
2022-10-23 12:31:33 +0000