「もう後がないんです」
ジリリリリリリッ
目覚まし時計の音を聞くたびにグラスワンダーの声が脳裏をよぎる。
唇を震わせながら涙を流す彼女など、今まで見たことがないはずなのにそんな夢を見てしまった。
気が付けば寝間着は汗でびっしょりになっている。
普段見せないような表情で縋るようにしがみ付いてくる彼女を見てしまい、心臓が早鐘を打っている。
夏合宿では想定した以上のタイム短縮が出来ていて、どのレースに出しても負けることはないという自信がある。
その裏返しで、こんな悪夢を見てしまったのだろう。
自分が自信なさげでは彼女も気が気ではない。
しかし、次に実際に会った時、彼女があんな表情をしていたら……。
そんな不安な気持ちを抱え、学園へと出勤する。
「今日もよろしくお願いします。トレーナーさん」
バ場へ向かうと彼女は既にジャージに身を包み立っていた。
いつもの柔和な笑顔で丁寧にこちらに挨拶をしてくれる。
「あ、ああ……おはよう」
戸惑いと共に安堵の声をもらす。
「……?トレーナーさんどうかしましたか?少しお疲れの様ですが」
彼女はこういう小さなことにも気づくので感心してしまう。
「あぁ、ちょっと夢見が悪くてね」
「あら、そうでしたか。合宿明けですから、トレーナーさんもお疲れだったのでしょう」
素直に伝えると、彼女は手で口元を隠しながら微笑む。
いつもの彼女で安心する。
気持ちを切り替えて今日のトレーニングを開始する。
トレーニングはケガもなく無事終了した。
合宿明けでもあったので軽めのトレーニングだったので比較的早めに終わったため、まだ陽は落ち切っていない。
「明日は休息日にしてあるから、しっかり休んでね」
スケジュールは事前には伝えてはいるが、改めて明日は休みであることを言う。
「トレーナーさんは明日、何か予定入っていますか?」
「いや、ないけど」
「でしたら、一緒に出掛けませんか?とても素敵な場所があるんです」
翌日
今日は特に悪夢も見ず、素直に起きることが出来た。
身支度を整え、待ち合わせ場所へ向かう。
「おはようございます。トレーナーさん」
時間前だが待ち合わせ場所には既に彼女が待っていた。
「おはよう。待たせちゃった?」
「いえ、つい先ほど来たばかりです」
そんな会話を交わしながら歩いていく。
「そういえば今日はどこ行くの?いつもなら山とか登ったりするけど」
彼女は自然を歩くのが好きなので、よくピクニック目的で山登りに同伴することがあるが、今回は違う所へ歩いている。
「彼岸花を見に行きたいと思っています」
「彼岸花?」
道の脇に彼岸花が点々と咲いているのが見える。
「もうそんな時期なんだな」
「えぇ、そうですね」
「道端に咲いてる彼岸花ってなんか綺麗だよな」
「分かります。ですが、これが集まっているともっと綺麗なんですよ」
気が付けば川に沿った林道を歩いていた。
そこには彼岸花が群生していて、開花時期のためか辺り一面真っ赤な絨毯のように咲きそろっていた。
自分たちの他にもこれを見に来たであろう人たちが、カメラやスマホ片手に撮影を行っているのが見える。
「すごいな」
「えぇ、本当にきれいですね」
緑のしっかりとした茎の上に毒々しいまでに真っ赤な花を咲かせている中を進んでいくのは、まるで異世界に来たような感覚だ。
そびえ立つ木々に寄り強い日差しは遮られ、セミの鳴き声と近くで流れる川のせせらぎを耳にしていると、自然と肩の力が抜けていく。
「ふふっ、トレーナーさんがリラックス出来ているようで良かったです」
こちらが脱力しているのを見て、彼女はふんわりとほほ笑む。
「もしかして、俺のために?」
自分が悪夢を見たから気分転換に誘ってくれたのか、そう思って質問すると
「それも少しありますが……。単純にトレーナーさんとここを見に来たかっただけですよ」
そういうと彼女は今まで並んで歩いていたところを3歩ほど前に出る。
長い髪で横顔は隠れ、彼女の表情は見えない。
「ありがとう。本当に気分転換になってる」
「それは良かったです」
自分では気づいてなかったが、思ってたより肩に力が入っていたのだと実感する。
彼女はまるで事前に知っていたかのようにお出かけに誘ってくれた。
そういう先回りで考えられるように行動が取れるようにならないといけないのは、トレーナーである自分であるのになと痛感する。
「ん?」
彼岸花を見ていて気付かなかったが、結構歩き進めていたためか、周りには人の気配がなく、自分たちしかいなかった。
「トレーナーさん、一つお聞きしてもいいですか?」
前を歩いていた彼女は立ち止まり下を向いている。
目線の先には踏まれて千切れてしまった彼岸花が2本落ちている。
「いいよ」
「トレーナーさんが見た悪夢、『私』はどんな表情をしていたのでしょうか?」
彼女は急に悪夢の内容を聞いてきた。
「えーとたしか、すごい切羽詰まった感じで『後がない』みたいなこと言ってたかなぁ……」
「……そうでしたか。女神様も意地悪なものです……」
最後の方が聞き取れなかった。その間に彼女はしゃがみ込み、目の前に落ちていた彼岸花を拾い上げる。
「でもそれがどうしたの?」
「夢の中の私は自身の力を過信しすぎていたのだなと思っただけです」
彼女の声が少し低く響く。
「だから私は日々のトレーニングにも手を抜かないようにしています」
彼女の言葉は確かで昨日の軽めのトレーニングでもだらけてやっている様子はなかった。
「でもなんで夢のこと聞くんだ?」
急に彼女から夢の話を振ってきたので少し疑問に感じた。
彼女は振り返る。
「すみませんただの興味本位です」
そう言って彼女は腕をこちらに伸ばす。
その手には白い花が握られている。
花の部分が真っ白な彼岸花を受け取った。
「白い彼岸花なんてあるんだな」
真っ赤なイメージがあるが、よく見てみると少ないが白い彼岸花が咲いているのが見える。
「トレーナーさんは彼岸花ってどんなイメ―ジがありますか?」
「そうだなぁ、綺麗だけどちょっと怖いって感じかな」
お彼岸の時期に咲いて形も独特であること。
あと、毒があるという話を聞いたことがあるからだろう。
「死人花、幽霊花、狐花……色々な言われ方をしますものね」
彼女の手には赤い彼岸花が握られている。
「彼岸花は見る人によって印象が違いますよね」
「キミはどう思ってるの?」
彼女が彼岸花にどんな印象を持っているか気になった。
「私は力強い花だと思っています」
彼女は淡々と語りだす。
「『葉見ず、花見ず』を繰り返すこの花は再会を楽しんでいるように感じます」
赤い景色の中で空のように透き通った青い瞳が輝く。
「私は好きです」
一瞬ドキリとするが彼女は言葉を続ける。
「特に白い彼岸花は、私の気持ちに合っています」
彼女は目を細める。
「キミは今どんな気持ちなんだ?」
白い彼岸花を受け取った自分としては彼女の心境がとても気になった。
返ってきた答えは
「それは乙女の秘密です」
グラスワンダーはその真っ赤な花で口元を隠すだけだった。
2022-09-25 10:00:02 +0000